昨日鯖江へ行く。父は回復が思わしくない、以前は医者への感謝の言葉が多かったが昨日は恨みの言葉が出ていた。それでもそれまでの経過を又繰り返し話す。一渡り終われば信仰の話に移る。最近迷信じみた話が多くなってきた。去年の報恩講の前日祖母の額が傾いて仏壇の電球が切れたから始まった一連のことは祖母がそうさせたのだという。人が聞けば偶然の繋がりと思うだろうが本人は必然のことだと確信している。決して呆けているわけではなく逆に考えつめている結果だ。
死との戦いにはこのような信仰が必要なのだろうか、そのおかげか「死は怖くない」と言っている。何事も理屈が先に立つ性分なのでそれをうまく使って心の平静さを保っているのだろうか。
その境地にはまだまだ立つことは出来そうもない。